山竹伸二「ひとはなぜ「認められたい」のか」を読む

2021年5月8日土曜日

読書感想文

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▽山竹伸二さんの「ひとはなぜ「認められたい」のか」という本を読んでいるのだけど、承認欲求の1つの発露が現在のインターネットにあるんだろうなと感じる。罵詈雑言は日常的に見かけるし、粘着質な人も多く、フォロワーやいいね、アクセス数を集めるのに夢中になっているのは承認欲求の表れなのだろう。私は承認欲求から開放されているような気がしていたのだけど、このブログのアクセス数がどうのこうのと言っているようではまだまだ抜けきれていない。

そうなると書きにくいのだけど、先月のアクセス数はようやく1万を越えた。今月は1日300前後なので、1万を前後するくらいの影響力のブログらしい。最低1万くらいのアクセスがないとブログの影響力はないと思って続けてきた。かつてはツイッターのフォロワー数を増やしたり、フェイスブックのフレンドを増やしたり、もっと前はミクシィもそうしていたので、この行為が承認欲求を満たしていたのだろう。SNSは既にどうでもよくなり、ほとんどアクセスもしないので解放されつつあるのだけど、ブログはそこまでに至っていない。

あらゆる束縛から解き放たれたいという願望がある。それはどこか承認欲求、誰かから認められたいという感情が嫌だからなのかもしれない。宗教的に言えば解脱とか悟り、煩悩を取り払う、みたいなことなのだろうけど、なぜだか憧れがある。感情に流されないクールな男は格好がいい。けど、それは私が心から望んでいることではなく、そう見られたいという承認欲求という可能性もある。なりたい自分になれていないと思われたくないという承認不安も持っているかもしれない。満たされない承認欲求というのは不安が不安を呼ぶ連鎖的な構造があるそうだ。家族や親しい友人から無条件に受け入れられ、承認されていれば何も迷うことはないんでしょうがね。

指摘として面白かったのは、自由な社会は承認されにくいということだ。かつては会社であったり地域コミュニティー、出身校、出身地域、宗教などの結びつきが強かったけれど、今はまったく関わらなくても生きることができてしまう。例えば会社人間であるなら働きまくって従属し、プライベートもささげることで認めてくれる人はいたけど、今ではブラックなどといわれ会社の人間関係も希薄になってきている。家族を考えても親子3代で住むことも少なくなっているし、結婚して同居することも敬遠され、親族の付き合いも希薄。一人ひとりの部屋が用意されそれぞれの自由も多い。

現代社会において、どこで承認欲求を満たせばいいのかと考えると、手っ取り早いのはやはりインターネットだ。その関わりがとても健全とは思えないのだけど、とはいえ、承認欲求というのは誰でもが持っていることだし、取り払わなくてはいけない感情ではない。承認欲求があるからこそ人は前を向いて生きていける。ただ、満たしてくれるものが現代にないのが問題だ。

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