渡辺尚志「江戸・明治 百姓たちの山争い裁判」を読む

2022年3月28日月曜日

読書感想文

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▽気になるタイトルだったので読んでみることにした。といっても、裁判がどのように行われていたのかはあまり興味がない。法律を学んでいたり、遠山の金さんや大岡越前という時代劇が好きだったら別の興味が湧いただろうか。私が知りたかったのは百姓の暮らしと山との関わり方だ。里山という言い方はよく知られているけれど、かつての日本人は山、林がなければ生活が成り立たないほど関係が深かった。武蔵野地域でいえば雑木林の落ち葉を集めて堆肥にして畑で利用しており、かなり衰退しているとはいえ伝統農法として今でも続けている農家はいる。それは武蔵野地域だけではなく、草や木の枝をそのまま埋め込む刈敷、焼いて灰にする草木灰、牛馬の糞と混ぜる厩肥など様々な利用の仕方を全国でしていたらしい。薪や炭として燃料にする、山菜、木の実、キノコなど食料の宝庫でもあった。それにすべてを木に頼っていた時代には建築資材として非常に重要だっただろう。

入会地というのは言葉として知っており、おそらくは武蔵野地域でも同じだったはず。今のように個人の所有ではなく、村や地域のみんなの共有地として利用していた。上述のように山林を利用しなければ生活が成り立たないので、自分たちの領域を確保するために今でいう裁判が各地で繰り広げられていたことがこの本で紹介されている。

時代劇の遠山の金さんや大岡越前のように奉行、お上が裁くというのは江戸時代に入ってからで、それまでは今では考えられないような決め方もあったらしい。江戸時代以前は暴力で強引に解決することは想像に難くないけれど、時には神に決めさせることもあった。湯起請はお湯に手を入れ、鉄火起請は鉄の棒を握り、その火傷の程度をみてどちらが正しいか決めたらしい。障害を負うこともあるし、無様な姿を晒して処刑されたりとなかなか激しい決め方だ。山林との関わりは死活問題なので世代を越えて数百年も争い続けたケースも紹介されている。

現在を生きる我々の自然との関わりは散策、リフレッシュが主な目的となってしまった。生活にしっかりと組み込んで活用する方法はたくさんあるのにもったいない。持続可能な社会を目指すなら昔ながらの山林の利用を復活させることは重要なことではなかろうか。とはいえ、長い歴史の中で完璧に有効活用してきたわけではなく、建築需要が激増して禿山にしてしまったこともある。明治以降の近代化の見直しも含めて現代的な新しい関わり方を考えたい。



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