▽10年ほど武蔵野をテーマに写真を撮ってきて、そもそも武蔵野とは何なのかと思うことがある。文化や風土としての武蔵野というのはほとんど失われてしまっている。風景としての武蔵野は万葉の時代から戦国時代までは何もない野、原野が特徴的に描かれてきた。江戸が日本の中心になり、開発が周辺に広がっていくにつれ武蔵野的風景はなくなっていった。100年と少し前に書かれた有名な国木田独歩の武蔵野においては、原風景的な武蔵野を求めるのではなく、畑や雑木林、人々の素朴な暮らしを眺めながら散策する楽しみが綴られている。現在では当然、原風景的な武蔵野はないし、国木田独歩が愛した武蔵野もあまり見られない。畑や雑木林は住宅や施設、道路に変わり、暮らしも随分変化してしまった。
武蔵野をどう定義して写真を撮り、作品としていくのか。武蔵野をテーマにしている方の作品を見てみると、雑木林やそこで農的に暮らす人の姿を写していることが多い気がする。いわゆる国木田独歩的な世界観ということかもしれない。私は原風景的な武蔵野に注目した。被写体は畑、茶畑、田んぼ、川、空き地など。さすがに原野のような土地はないので、障害物のないだだっ広い○○を現代的な武蔵野の現在地と定義して撮り続けている。あまり意識していなかったのだけど、狭山丘陵周辺の雑木林も撮り続けているので、これも武蔵野的な風景の代表例として作品化していくのもいいかもしれない。
今回の写真の撮影地は荒川河川敷。羽根倉橋の南側で住所としては志木市なので武蔵野に含まれている。これが荒川を渡ったさいたま市になると武蔵野ではない。と、思われる。ここから荒川沿いの北方面は結構田んぼや畑が残っているようだ。自宅が所沢で、当初は電車移動だったので、このあたりはまったく撮っていなかったので、定期的に訪れていくのもいいかもしれない。