お酒を飲まない人に夜の街は居場所があるか

2021年10月11日月曜日

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▽私は数年前までは夜な夜な飲み歩き、家でも安物のワインや焼酎を買って少しばかり嗜んでいた。特に何かのきっかけがあるわけではないのだけど、今ではほとんどお酒は飲んでいない。理由を後付で考えてみると、一つは身体に悪いということだ。酒は百薬の長などと言われてきたけど、個人的にはだいぶ疑っている。酒というのはアルコールなわけで、言ってしまえば劇薬だ。酒は百毒の長という言葉のほうが私としてはしっくりくる。それにコミュニケーション手段としては適しているけど、いらぬトラブルを引き起こすこともなくはない。お金だって毎日毎日飲んでいれば結構な負担になる。

 知っている人も多いと思うのだけれど、僕はお酒を飲まない。飲めないのではなくて、飲まない。もちろん、決して酒に強い体質ではないのだけれど、それ以上に「酒の席」が苦手なのだ。出版業界の、とくに批評とか思想とかそういった分野はまだ昭和の飲み会文化が色濃く残る古い世界で、業界のボスが取り巻きを連れて飲み歩いて、取り巻きはボスの機嫌を取るためにその敵の悪口を言って盛り上がるという陰湿なコミュニケーションが常態化していたりする。もちろん、このような陰湿な飲み会文化に染まっているのはごく一部の人たちで、ほとんどの人たちは気持ちよくお酒を飲んでいることはよく知っている。でも、こういう古い体

noteでフォローしている宇野常寛さんの記事に目が留まった。なるほど、コミュニケーションに繋がるとは私も書いたけど、必ずしもみんなが楽しく飲めるわけではない。上司や目上の人がいれば気を使うだろうし、独特の慣習や受け入れがたい空気が支配していることもある。立場によって楽しくない飲み会に強制的に参加させられるとしたら苦痛でしかない。楽しい飲み会より楽しくない飲み会のほうが多いなら、宇野さんのように飲まないという決断は適切だ。流石に現代社会では飲めない酒を無理やり飲ませる人間はそういないだろう。

お酒を飲まないと夜の街ではあまり居場所はない。深夜まで開いているファミリーレストランやファストフード、夜鳴き蕎麦くらいだろうか。宇野さんは「飲まない東京」を実現させようとしている。私は一時期、高円寺まで歩けるくらいの距離で一人暮らしをしていた。そこでカフェの居心地の良さを知ったのだけど、高円寺や中央線沿いの感度の高い若者の多い町には飲まない選択肢がある。私が通っていたカフェも夜遅くまで開けてくれていた。もちろんお酒を出していて、売上のためにはお酒を飲んで欲しいのだろうけど、だからといってコーヒーだけのお客に嫌な顔はしない。コーヒーなど心落ち着く飲み物でのんびりしてもらうという思いが店主にはあるので、お酒なしは織り込み済みなのだ。いわゆる夜カフェというものだけど、今住んでいる地元の所沢にはそのような文化はない。それが飲み歩くきっかけだったのかもしれないけど、飲まなくなってしまって行く場所がなくなってしまった。まあ、夜はおとなしくするものだと思えば特に不便はないですが。こう書いているけど、月に一度は飲んでもいいと自分に許可を与えているので、ふらふらと出かけようかと思っている。

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